2026年07月20日
ストラテジーブレティン 第404号
骨太方針批判の致命的弱点、「履歴効果」視点の欠如
~まるでJoke 、日経新聞の骨太方針批判~
“骨太ショック”論の異常性
6月30日に骨太の方針の原案が出されて3週間が経過するのに、いまだに閣議決定がなされていない。その間に日経新聞なとの主要メディアで、批判の洪水が展開されている。検討されている骨太の方針が、円安、金利上昇(骨太ショック)と言う市場の不安を掻き立てているという、鬼の首でも取ったような騒ぎである。特に日経新聞のあからさまな批判は目を疑う。7月18日はアベノミクスと黒田異次元金融緩和を批判し続けた大塚節雄編集員が登場し「異次元の補助金と夕張の闇」との長文コラムを執筆し、政府補助金で無謀な投資を続け財政破綻した夕張市と高市氏の成長戦略を同類だとみなし、円安と長期金利上昇という市場不安を引き起こしている、と主張している。
また7月20日には原田論説フェローがより直截に「減税撤回、利上げ加速を」との長文コラムで、高市政権の減税と利上げ抑制政策が円安と長期金利上昇と言う国力不安を引き起こしている、高市政権は政策を全面転換するべきだと、公平性を欠く議論を繰り広げている。日経新聞を日々の判断の拠り所としている多くのビジネスマン・経営者は、高市政権の政策の誤りは火を見るよりも明らか、と思うに違いない。武者リサーチはそのような批判は的外れと、声を大にして主張したい。
高市政権は日本の長期停滞は必然ではなく、投資不足と言う過去の負の履歴効果が原因であり、積極投資と言う正の履歴効果を積み上げることにより、逆転できると主張する。そのためには今こそ投資を誘発する拡張的財政・金融政策が緊要である。日経平均株価の高市自民総裁就任(10/4)以降8ヶ月余りでの45,000円から72,000円(6/23)への60%の急騰は、そうした政策変化と日本経済の成長力加速期待に基づくものである。日経記者の直近の円安・金利上昇を国力不安の現れと言う評価が、いかに公正さを欠くものであるかが、分かろう。以下では彼らが決定的に見落としている視点、履歴効果を紹介したい。
(1) クルーグマンの新経済地理学と履歴効果
日本経済の長期停滞をめぐる議論では、財政赤字、人口減少、労働市場改革、生産性向上などが主要な論点として扱われてきた。しかし、これらの議論には決定的に欠けている視点がある。それは、経済には「履歴効果(hysteresis)」が存在するという認識である。経済は、現在の条件だけによって決まるものではない。過去の投資、産業集積、技術蓄積、人材形成、政策判断が、現在および将来の経済能力を規定する。したがって、一度失われた産業基盤や成長能力は、市場メカニズムだけでは容易に回復しない。日本の「失われた30年」は、まさにこの履歴効果によって説明されるべき現象である。
この視点を理論的に理解するうえで重要なのが、ポール・クルーグマンの経済学である。クルーグマンは2008年にノーベル経済学賞を受賞したが、その対象となった新貿易理論・新経済地理学は、経済活動が歴史的経路に依存し、初期条件によって産業配置や成長経路が大きく左右されることを明らかにした。この考え方は、現代の産業政策を考えるうえで極めて重要な意味を持っている。
クルーグマンの新経済地理学の核心は、産業立地が単純な比較優位だけでは説明できないという点にある。伝統的経済学では、企業や産業は自然条件、労働コスト、資源配置などによって合理的に配置されると考えられてきた。しかし、クルーグマンは、規模の経済、輸送費、市場規模の相互作用によって、産業集積が自己強化的に形成されることを示した。ある地域に企業が集まると、雇用が増加し、労働者が集まり、消費市場が拡大する。その結果、さらに企業が進出するという循環が生まれる。
この過程は、履歴効果そのものである。一度形成された産業集積は、それ自体が競争力の源泉となる。デトロイトの自動車、シリコン―のハイテク・半導体、中国深圳のハイテク集積、台湾の新竹科学園区などはその好例である。逆に、一度失われた産業集積を回復することは容易ではない。企業、人材、研究機関、サプライチェーンが失われると、単に補助金を投入するだけでは元の状態には戻らない。つまり、経済には「後戻りできない時間の効果」が存在する。過去の停滞は現在の低成長を生み、現在の低成長は将来の成長能力をさらに低下させる。この累積的悪循環こそ、日本経済が直面している問題である。
(2) ポスト・ケインズ派と履歴効果――需要が供給能力を決定する
クルーグマンの分析は、新経済地理学の分野だけでなく、ポスト・ケインズ派の考え方とも接点を持つ。ポスト・ケインズ派の重要な主張は、経済は供給側の能力だけで決まるのではなく、需要の動向が長期的な生産能力を決定するという点である。新古典派経済学では、長期的には市場が均衡へ向かい、需要不足は一時的な問題と考えられる。しかし、ポスト・ケインズ派は、不況が長期化すると企業投資が減少し、設備や技術、人材への投資不足が発生し、その結果として供給能力そのものが低下すると考える。これは「需要不足による履歴効果」である。例えば、景気低迷によって企業が設備投資を控えると、短期的には単なる投資減少に見える。しかし長期的には、設備更新の遅れ、研究開発能力の低下、人材育成機会の減少をもたらす。その結果、潜在成長率そのものが低下する。不況は単なるGDPの一時的減少ではない。不況が長期化すれば、それ自体が経済構造を変化させるのである。
(3) 日本の長期停滞――履歴効果による産業能力の毀損
日本経済の1990年代以降の停滞は、この履歴効果によって説明できる。バブル崩壊後、日本では企業が過剰債務の削減を優先し、投資を抑制した。同時に、政府も財政健全化を重視し、公共投資の削減や緊縮的政策を進めた。その結果、需要不足が長期化し、企業は新規投資よりもコスト削減を重視するようになった。加えて米国による熾烈な日本たたきは日本企業の投資意欲を長期にわたってそぎ落とし、履歴効果が日本の産業基盤を長期にわたって弱体化させてきた。
かつて日本が強みを持っていた半導体、デジタル技術、エネルギー関連産業などでは、長期的投資の不足によって国際競争力が低下した。また、若年世代の雇用不安定化は、人材形成にも悪影響を与えた。重要なのは、これらが単なる「景気問題」ではないという点である。失われた投資、失われた技術蓄積、失われた人材育成機会が、日本経済の現在の弱さを形成しているのである。
(4) 骨太の方針批判への批判――財政規律偏重がもたらす履歴効果
「骨太の方針」に対する批判の最大の問題点は財政健全化を過度に重視し、産業復興と履歴効果への認識を決定的に欠いていることである。もちろん、財政の持続可能性は重要である。しかし、経済が停滞し、民間投資が不足している局面で政府支出を抑制すれば、需要不足が固定化される。その結果、企業投資が減少し、産業基盤がさらに弱体化する可能性がある。財政赤字を減らすことだけを目的とした政策は、短期的な帳尻合わせには成功しても、長期的な経済力を損なう。必要なのは、政府支出を単なる消費ではなく、将来の供給能力を形成する投資として考えることである。研究開発、人材育成、エネルギー安全保障、戦略産業への投資は、将来の税収や成長力を生み出す基盤となる。クルーグマンの理論が示したように、産業集積や技術基盤は一度失われると自然には回復しない。だからこそ政府には、長期的な産業政策によって経済の履歴を書き換える役割が求められる。
経済には履歴効果がある。だからこそ、政策によって歴史の方向を変えなければならない。日本に求められているのは、過去の失敗を管理する政策ではなく、未来の産業基盤を創造する国家戦略なのである。
